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それは、私が見てきた中でも数少ない、戦争、人間性、憎しみ、そして生きる意味までを本気で描こうとした作品だからだ。
中国の読者にとって、『進撃の巨人』はどうしても重い歴史的な文脈を背負ってしまう。日本で生まれた作品だからだ。日本は中国を直接侵略し、虐殺を行った国でもある。中国人の視点からすれば、加害の側にいた国が、力関係が変わったあとになって平和や憎しみの連鎖の断絶を語り始めることには、どうしても滑稽さがつきまとう。もし『進撃の巨人』が中国で生まれた作品だったなら、私はもっと迷いなく傑作だと言えただろう。とはいえ、こういう作品が生まれる土壌は、たしかに日本のほうにあったのだとも思う。ちなみに『羅小黒戦記』の劇場版第二作にも似た気配があり、私はあれも傑作だと思っているが、ここでは深入りしない。
それでもなお、私は『進撃の巨人』がとても好きだ。
たしかにこれはアニメ作品だ。けれど、漫画やアニメという形式はあくまで器にすぎない。細部まで写実的な作品ではないが、主流の商業アニメの中では、私が考える現実にかなり近いところまで来ている。登場人物たちの行動には、それぞれ筋が通っている。善良な平民がなぜ侵略に加担するのか。なぜ人は殺し合うのか。私たちはそれを理解できる。これは侵略者に共感するということではない。すべての敵を単純化し、悪魔化することは現実的ではないし、人に簡単に引き金を引かせるだけだ。それはむしろ、マーレ上層部やイェーガー派のような、別の意図を持つ者たちの手口なのだろう。
エレンもそうだ。多くの人が彼を道化のように見なしたとしても、その行動には彼なりの論理がある。人間には、生まれながらに破壊への衝動がある。世界を踏み潰したいと願う人間は、あまりにも多い。千年にわたって巨人の力に支配されてきた民族を解放し、身近な人々を救い、八割を消し去り、さらには家族を犠牲にすることさえ、想像できない話ではない。エレン、アニ、ライナー、さらにはアルミンまで、これほど多くの人物が丁寧に描かれているからこそ、人間がなぜ悪魔になり得るのか、そして悪魔がどうすれば人間に戻り、罪を償えるのかが示されている。ましてエレンは、自分が悪魔であることを自覚している。自分を正義だと思い込み、敵は生まれながらの悪魔だと幻想し、何の罪悪感もなく、立場の違う同類へ刃を振り下ろすマーレ人、エルディア人、そして地球人よりは、よほどましだ。
『進撃の巨人』は、人間というものを容赦なく描く。勇敢な兵士も、死を前にすれば泣き叫ぶ。最強の兵士であるリヴァイでさえ、何が正しい選択なのかを常に知っているわけではない。父親が森から出て憎しみを手放せと語ったばかりでも、それで怒りが消えるわけではない。心優しいカヤでさえ、感情を抑えきれず、仇を自分の手で殺そうとする。これからは共に生きていこうと言ったばかりの兵士たちは、終盤の数カットで再び銃を構え、人間に戻ったエルディア人たちへ照準を合わせる。その一方で、自分の信念を守り抜く者たちはいっそうまぶしく見え、道を誤りながらも引き返す者たちはいっそう尊く見える。私にとって、本当の人間とはそういうものだ。愛おしく、哀れで、決して記号には収まらない。
物語は、繰り返される死を通して、戦争がどれほど残酷で愚かなものかを突きつけてくる。もちろん胸が熱くなる場面もある。私たちは「心臓を捧げよ」と叫び、調査兵団の一員になって敵をすべて倒す自分を想像する。けれど、イェーガー派がザックレー総統を爆殺し、民衆までもが「心臓を捧げよ」と叫ぶとき、その言葉は急に不気味な響きを帯びる。作品は何度も問いかける。その標語の中の心臓は、いったい誰に捧げられていたのか。そして誰に捧げられるべきなのか。そこで、自分が物語に指を差されていたのだと気づく人がいる。自分もまた軍国主義的な熱狂に飲み込まれていたこと、その熱狂がどれほど危ういものかに気づく人がいる。そういう人は当然イェーガー派の側には立てなくなり、自分はいったい何に心臓を捧げていたのかを考え直す。一方で、そこに侮辱を感じる人もいる。『進撃の巨人』への評価が大きく分かれる理由は、ここにあるのだと思う。
多くの人は、『進撃の巨人』に「どうすれば戦争を終わらせられるのか」という究極の問いを論じてほしかったのだろう。けれど、この作品はそもそもその問いに答えようとしていない。あるいは、すべての争いを終わらせる万能の方法など存在しないと考えている。海のこちら側にも向こう側にも、善人も悪人もいる。人は互いを理解できたとしても、それでも身を守るために武器を取らざるを得ないことがあるし、場合によっては先に撃たざるを得ないこともある。巨人の力が消えても、争いは消えない。百年後にはまた戦争の泥沼へ落ちていく。この構図は、私がこの世界について抱いている認識と合っている。戦争は数千年の歴史の中で続き、今もなお起きている。歴史は繰り返し、正義かどうかは多くの場合、立つ場所によって変わる。この世界はどうしようもなく壊れていて、どうしようもなく残酷だ。私の中では、『進撃の巨人』の世界観は成立している。
では、『進撃の巨人』は虚無主義の作品なのか。あらゆる努力は無意味だと言っているのか。そうではない。少なくとも、私はこの作品がそう語っているとは思わない。たしかに悲観的な空気はある。けれど中心にある問いは、こんなにも残酷な世界で、私たちは何のために生きるのか、ということだ。そして作品は、その問いに答えている。ありふれた言い方かもしれないが、ロマン・ロランの言葉でまとめるなら、こういうことだ。
この世にただ一つの英雄主義がある。それは、世界をあるがままに見て、そしてそれを愛することだ。
作中には、ジークのように虚無へ傾く人物がいる。人間など生まれてこなければよかった。民族の存続にも意味はない。恐怖は繁殖本能から生まれる。意味のない生命活動が、こうした悲劇を生み出している。そう考える彼に、アルミンは別の答えを示す。
信じ、守りたい仲間がいて、その仲間たちがまだ戦っているから、戦うことには意味がある。子どものころにエレンやミカサと走った時間が楽しかったから、人生には意味がある。雨の日に家で本を読むこと。自分があげた木の実をリスが食べているのを見ること。みんなで市場を歩くこと。そうした何でもない瞬間が、かけがえのないものなのだ。
ヒューマニズム。『進撃の巨人』が語ろうとした思想の一つは、そこにあるのかもしれない。人間は残酷で、憎しみは避けがたい。それでも、愛する人のために、理解しようとし、守ろうとし、自分が正しいと思うことを行い、人としての道を守り、戦い、心臓を捧げる。対照的に、心に愛のない人はこの部分をそのまま読み飛ばし、アルミンの思想を理解しようとしない。虚無に陥っているのは作者ではなく、観客自身なのだ。
私は、『進撃の巨人』を徹底した反戦作品だと思っている。政治的な主張のための作品ではない。この作品は、世界が残酷であること、戦争を娯楽として消費してはいけないこと、争いがもたらす痛みと災厄を軽く見てはいけないことを伝えようとしている。同時に、この残酷な世界でどう生きるべきか、憎しみや争いにどう向き合うべきかを問いかけている。
だから私は「一万人の読者がいれば一万人のハムレットがいる」という言い方を、あまり受け入れられない。もちろん、優れた作品には解釈の余地がある。けれど、それは作品に安定した表現がないという意味ではない。画面の作り方、人物の表情、動き、しぐさを見れば、作者が伝えようとしている思想はかなり明確で一貫している。多くの人がそれを読み取れなかったのは、一部には作者の表現力の限界であり、一部には時代の中に生きる人々の限界でもある。少なくとも高市早苗さんは、見ても明らかに理解できていなかった。
振り返れば、作品そのものは「どうすれば戦争を終わらせられるのか」という問いに答えてはいない。制度設計も、万能の解決策も提示していない。けれど別の意味で、『進撃の巨人』そのものが答えなのだ。この作品は、戦争の残酷さ、憎しみの愚かさ、それでも人は互いを理解しようとすべきだということを、何度も私たちの前に差し出している。こうした反戦の思想が、日本人、アメリカ人、ウクライナ人、ロシア人、イスラエル人、パキスタン人、そして中国人にまで本当に受け入れられるなら、世界の戦争は本当に減るかもしれない。いつか消えていくかもしれない。
私はもっと多くの人に、『進撃の巨人』を読み取ってほしい。互いを理解することを、簡単に拒まないでほしい。今という時代だからこそ、私たちにはこういう作品が必要なのだと思う。